こっそりと中指を
今年は、いろんな概念について、改めて考えた1年だった気がする。
お金ってなんだろう?
時間ってなんだろう?
所有ってなんだろう?
それは、本当にあるのか?ないのか?必要なのか?増大させなきゃいけないのか?成長しなきゃいけないのか?そう思ってしまうのはなぜか?なぜ手に入れなければならないのか?所有していると思いこんでいるものは本当に”所有”しているのか?
私達は、なにと比較しながら、比較されながら生きているのか?
そのあらゆるものの根底にあるのが”資本主義”なのではないか。資本主義は、経済の名前ではなく”生き方”の名前だ。怖いのは、その生き方の価値観を、気づいたら植え付けられているということ。
どこかで自覚して、増幅する欲求を自制しない限り、おそらく幸福はない。
”もっと、もっと”と求めている限り、常に飢えている状態にある。そこにいるときには見えないものが、本当に大切なものだったりするのかもしれない。
例えば、お店が”もっと利益を出したい”と思ったとする。それは、継続していくためにはとっても大切なことだったりもする。お店であれば当然の感情であり、むしろそれが目的とも言える。
だけれど、”利益をもっともっと上げたい”と思ったときに、どこかに負荷がかかるようになる。
それが、自分の体力的なものかもしれないし、スタッフの消耗かもしれないし、下請けへの圧かもしれない。購入者の財布事情かもしれない。
そうしなければ、やっていけないのであれば、その負荷は必要な負荷ではあるのだけれど。
何かと比較して、煽られて、の感情なのであれば、その比較こそが”もっと、もっと”の根源である気がする。
よく「止まることは後退していることと同じだ」なんて言われたりする。そんなわけないじゃん、と思う。止まっていること=後退していることというのは、まわりの世界や環境との相対的な”後退”という意味だけれど、まわりとの比較を考慮しなければ止まっていることは、止まっていることでしかない。指標はなにか、で変わってくる。
日々、息をしているだけで、成長している。体の細胞だって、昨日とはどんどん入れ替わっている。
大丈夫、あなたが何かに取り組んでいるのだとしたら、きっと成長しちゃっている。心配しなくても、大丈夫。それは社会の求めてくる成長スピードではないかもしれないけれど、そんなものにはこっそりと中指を立ててしまえばいい。
とはいえ、社会とは完全に切り離して生活することはできないから、その事情を考慮したうえで自分の中にひそっりと落とし込んでおけばいい。
来年もこれを、言い続けたい。”もっと”を最小限で抑えること。継続可能なラインで、関わる人が健康的に生きられること。
出来るのか、出来ないのか、わからないけれど。とりあえずやってみる。
今年も1年、超個人的見解なブログにお付き合いいただきありがとうございました。
そろそろ、年が変わりそう。良いお年を。
お金、時間、所有、ルール、幸せとは?…このブログにより色々考える事が出来た1年間でした
何年も「止まっていた」けれど「後退」してはいないよ、と言って貰えた様で何だか安心する
幸せは「自分の心が決める」、他人と比べない事で心が楽になる…そんな気がするね
あ、既に新しい年に…
本年もよろしくお願いいたします