抽象的であること
あっという間に9日になってしまいました。
今年もよろしくお願いいたします。
2024年。自分にできることは何かを考えながら日々を過ごさなくては、と改めて感じます。
諍いの発端は、たいてい言語から。言語に頼りすぎるな。ということを何年かかけて学んでいます。
言葉は、思いを伝えられるツールであって、みんなを巻き込める力があって、主張をする強さがある。包み込める優しさがあって、あたためる力があって、それでいて滅多刺しにできる鋭さがある。
伝えることは大切だけれど、それはいつだって”伝わらない可能性”を含んでいることを忘れてはいけない。
親から子への「愛している」だとしても、それは時々、鎖でぎゅうぎゅうと締め付ける行為になり得る。本人は締め付けている行為にも気が付かない。なぜなら、善意だから。
Aが悪いのではなく、Bが悪いのでもなく、AとBの間にあったもの、もしくはAとBの間を移動した際にほんの少しズレた隙間。そういったところから、拗れていく。
だとしたら。
そもそも、隙間をあけておく。相手と自分の間に、境界線を引かないために、余白を多く残しておく。曖昧にしておく。解釈できる余地を残しておく。抽象的なままにしておく。それはほんの少し、平和に繋がらないだろうか。
そんなようなことを考えながら、ROJI COFFEE&BOOKSをつくっていきたい、と思っています。具体的にすることよりも、何十倍も難しい。もしかしたら、茶道のように、型がしっかりないと不可能なのかもしれない。かなり高度なことなのかもしれない。
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少し混みかけた、平日の午後。
飲み終わったコーヒーカップがカウンター横に置かれていて、紅葉の葉っぱがちょこんと入っていた。その葉っぱは”ごちそうさま”と言っているかもしれないし、たまたま入っただけかもしれない。”ありがとう”と言っているかもしれないし、言っていないかもしれない。
その、曖昧で言葉を使わないコミュニケーションが、とっても豊かで心地よい世界だった。
受け取り手の技量次第でいくらでも意味を感じることはできる。
贈り手の配慮と、受け手の想像力。それが溢れたとき、ほんのちょっと世界が平和にならないかなあ、、
今年も、よろしくお願いいたします。
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コメント4件
言葉だけでは伝わらない可能性もある
言葉がなくても伝わる気持ちもある
うーん、なんだかムズカシイね
ある日の夕食時、妻が話しの流れで次男に対して「次男は人を奴隷の様に使う」(ある本に書かれていた次男の特徴的傾向の表現)と言葉を発した事により、次男は食べるのを止め、家を無言で飛び出し近所のばあちゃん家に1週間閉じこもった事もある
人を傷つけたり幸せな気分に出来る「言葉」、相手が受け取った時の事も想像して発しなければならないと感じた
言葉を使わないコミュニケーション、こちらの方が平和な世界に近付けるのかもれしない
伝えようとする気持ちと受け取ろうとする気持ちが大事だな、ってことと、言葉を過信して疎かになっていた、ということに気づいた去年
それを気づかせて貰った人に熱く語った年始
そして、今日この記事を読んで更にコミュニケーションについて考えたいと思いました
“自分と相手の間に余白””贈り手の配慮と受け手の想像力”を心に留めてコミュニケーションしてみたいと思います