カフェとは対話である
個人的に、カフェにはひとりで行きたいタイプである。
ひとりで行っても心地よいお店が好きだ。
なにより、ひとりで行かなければ感じられないものがある。
ひとりで行かなければ感じられないもの、それはお店を通した店主との「対話」だ。
対話とは、会話のことではない。会話が「相手と話すこと」であるとすれば、対話は「相手と意味を共有すること」。
日常の中で「会話」をする機会は、多々あるだろう。お店で交わすやりとり、会社での情報伝達、家族との団欒、子どもと遊ぶこと、道での挨拶、SNSでのやりとりだって「会話」と言えるかもしれない。
では、その中で「相手と意味を共有でいていること」は、どのくらいあるだろう。
対話をするには、相手へのリスペクトが欠かせない。相手と対等の立場で話すことが大前提である。
大人数で対話をすることは出来ない。大勢ではなく、目の前の人と意味を共有する。
そこには、言葉すら必要としない場合もあるのではないか、と思う。相手の様子を察して、そっと寄り添う。言葉を介しても、介さなくても、それはもう対話なのかもしれない。
先日、その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行くという本を読んだ。精神科医である著者が日本の自殺希少区域を旅し、その特性について、ひとが生きやすい環境にや孤立しない仕組みについて感じたことをしたためた本である。
その中で出てきて印象的だったのが”ひとは、ひととひとの関係の中で生きる。ひとと対話しながら生きる。ひとがとりまく環境とうまく対話ができなくなったときに、ひとは病む。”という言葉だった。
家族でも、職場でも、子育てでも、一緒なのかもしれない。自分という存在に、相手が対等な立場で向き合ってくれること、感じていることに対して一緒に感じようとしてくれること、そういう場所が、きっと人には必要なのだ。
「対話」とは、私がカフェを通して行いたいと思っていた概念、そのものだったのである。
いくら話しても、わかり合えないこともある。だけれど、ひと言も話さなくても対話しているときもある。動作も眼差しもコーヒーだって、きっと対話になりうる。お店の姿勢から、それらを感じることもある。そんなときには、帰り道、得も言えぬ余韻を味わうことになる。
私にとって、カフェとは対話そのものだ。
コーヒーを一杯づつ淹れることも、淹れているときに後ろの人の注文をなるべく聞かないようにしているのも、出来ればお客さんもひとりできてくれたら嬉しいなあと思ってしまうのも(もちろん連れ立って来てくれるのも嬉しいのだけれど)ここに集結しているのだな、と改めて感じた次第。
私の場合はいつもそうなのだけれど、頭で考えて「良い」と思ったことをしていくのではなく、「なんか良い」と思ってしていたことに対して、後から理由を知るような感じ。直感でしていたことを、後から理論で追いかけるのは、パズルのピースがはまっていくようで爽快だ。
10月もあと1週間。今週も頑張りましょ◎11月の予定も忘れないように、そろそろ更新しまーす!
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