余白という役割
サービスの自由度を上げるために、ルールを極力、抽象化する。それが実現可能なスタイルを見つける。
自分でお店をしようと思ったきっかけは何だったのか、と問われればその一言に尽きる。
先日、コーヒーを買いにきたいつもの常連さんが注文の際に「お財布を忘れてしまった!」ということに気が付いた。「これから電車に乗らなくてはいけないのに、どうしよう、、」と、困っていたらしい。らしい、というのも、その時わたしは居なくて、その時に対応したのは、朝の時間にコーヒーを淹れてくれているゆかちゃんだった。
それで彼女がどうしたのか、というと「電車賃の為に1000円貸した」ということだった。
それを聞いて、わたしはジワジワ喜びを噛み締めていた。(いい判断したね!最高!)と心のなかで叫んでいた。
それはマニュアルなんかじゃなく、彼女が自分で判断して「相手のことを思ってやったこと」だったから。もし、わたしが同じ立場であってもそうしたと思う。
誰にでもお金を貸していい、ということではない。いきなり来た人に「お金ください」と言われれば、控えめな強盗かと思って交番にご案内する。あらかじめ、それ目的で来た場合でも、訝しがるかもしれない。(当然の如く)
でも、今回の場合のそれは、そうじゃなかった。そう彼女が判断したのであれば、それが正解だ。
「お客さんのためを思ってしたことだったら、OKにしよう!と(信頼して)言える相手じゃないと、一緒に働けない」と言っていた人がいた。その意味を、ひしひしと感じる。
遵守すべきは、具体的なルールではなく、抽象的で普遍的なお店の概念だ。
STREET COFFEE&BOOKSは、厳格なルールは殆どない。それは、ある意味でいえば厳しいことといえるかもしれない。その状況において、自分が最善だと思う選択肢を信じなければいけない。
それはつまり「自分を信じること」とも言える。
お客さんのお店での過ごし方についても、ほとんどルールはない。ない、ということの意味を一緒に考えてもらえたら、街にとってよりよい場所になっていけるような気がする。具体的なルールがあったほうが楽だな、という人もいる。そういう人にとっては、戸惑いの多いお店かもしれない。「席はどこですか?」と聞かれて「街全体です」と言っちゃうくらいには、ざっくりしている。
「よりよいお店」を目指すのではなく、「よりよい世界」になればいいなあと思う。「よりよいお店」は目的ではなく、「よりよい世界」になるための手段である。
今の世の中は窮屈すぎる。そうせざるおえない理由もよく分かる。
でも、だからこそ、コーヒーを通して余白を提供したい。日々の中にも、心の中にも。
それが「良い」という訳ではない。それを目指すべきだ、とも思わない。ただ、そういう役割を全うしたい。それだけのこと。
2021年の営業もあと数日。今年も思う存分やりたいようにやらせてもらいました。ありがたき幸せ。残りの2021年も穏やかに過ごせますように。
今週も、頑張りましょ◎
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