感情の欠片を集める
あなたのことを教えて欲しい。
あなたのこと、とは、あなたの内側のこと。それは目に見える外側の周辺情報ではない。あなたの内側とは、今、何を思って何を考えて何を感じているのか。そういう目には見えない心の中のこと。
そう思って、いつもお店に立っている。
「最近こんな出来事があって、、」そう誰かが話してくれる時、私が知りたいのはその先だ。こんな出来事があって、あなたはどう感じたのか。どんな気持ちになったのか。それがもっとも知りたい部分だ。
その感情の欠片のひとつひとつは、あなたを形作っている成分だと思うから。
まだ学生の頃。手をあげて発言をするのがとても苦手だった。国語や算数も発言したくなかったけれど、一番イヤだったのは「学活」で発言することだった。教室で起きた出来事や、行事の予定などについて決め事をするとき「どう思いますか?」という問いに対してまるで意見を言えなかった。言わなかった。
今考えれば「どう思いますか?」の問いに、答えなんて無い。どんな意見を言ってもどんな感想を言っても、それは間違いではなかったはずだ。それなのに当時は「反対側の意見」を恐れていた。「意見を否定されること」と「自分を否定されること」を同義語のように捉えていたのかもしれない。
「〇〇さんの意見に賛成の人!反対の人!」私にとって、あのときの多数決は公開処刑、恐怖の対象でしかなかった。
「学級」は、小さな社会である。友達同士という安全な小家族のような枠をもうすこし広げて、どんな考えを持っているかわからないクラスメイト、話したことのないクラスメイト、趣味の合わなさそうなクラスメイト、そういった人たちがごちゃまぜになった空間。あれはきっと、ちいさな社会だった。
ちいさな社会では無言を貫いたけれど、友達同士ではこっそり本音を言い合えた。大勢の前では言えなかった気持ちを吐き出せた。友達同士ではなぜ吐き出せたのか。きっと、そこには信頼関係があったからだ。各々異なる見解だとしても、それはその友達のひとつの意見であり「自分を否定されている」訳ではないという信頼感があったから、きっと言えた。
自分の中でもやもやしていたものを、身体の外側に出してみる。それによって、もやもやしていたものの輪郭は、はっきりとするのかもしれない。それは「誰かに伝えること」以上に「自分で自分を理解すること」につながっていく気がする。
STREETCOFFEE&BOOKSは、こっそり本音を言うことが出来たあのときの「友達」のような場所になりたいなあと思う。
あなたのことを教えてほしい。
それは「私があなたを知ること」以上に、「あなたがあなたを知ること」であると思うから。
そんな気持ちで、毎日お店に立っている。
確かに子供の頃 みんなの意見に対し声高に違うことは言えなかったなーと久々に何十年も昔のことを思い出しながら。子供はある意味残酷に意見の違う子に対し仲間外れやイジメの対象にするところがあるから。自分の思いを理解してくれる人や場所があることはいいですね あの人があんなこと言ってたーって 人を介し広まってくときも 揉める元だったり 気づけばいい大人になっても なかなか自分の意見を主張できてないですね 息苦しい世の中のオアシスのようなお店が広がるといいですね