人が最後まで求めているもの

人は、あらゆる方法で、社会と繋がっていようとする。

ネコやハトに餌をあげる人、行政に毎日文句を言いに行く人、駅前で日々何時間も佇む人、カフェに通う人、街でコーヒーを淹れる人、それぞれ自分なりのやり方で、社会と繋がっていようとする。

行政に毎日文句を言いにいくZさんと挨拶をするようになったのは、およそ9年前の移動カフェをしている時だった。ただならぬ形相で、毎日交番に怒鳴り込みにいくZさん。交番で足りない時は市役所まで。時にはファッションビルの受付まで。あらゆる角度から見つけた街の「遺憾」をぶつけにいく。

そんな彼に興味が湧いて、ある日挨拶をしてみた。そして、毎日交番にどんな話をしにいくのかを聞いてみた。街の小さなことから、世界の大きなニュースまで、いいことから悪いことまで、あらゆることを行政に伝えにいくようだった。

いつも怒ってはいるけれど、話してみたら「悪い人」というわけでもなく、いつも街のニュースを教えてくれた。今度のお祭りは◯月◯日だよ、車は混むから気をつけたほうがいいよ、そんなプチ情報まで。

彼は、彼なりの方法で街をパトロールしているのだった。彼は「怒る」ことで、社会と繋がっていようとした。

ハトに餌をあげちゃうおじちゃんに話しかけた時には、ハトは自分が来たことを喜んでくれるのが嬉しい、寄ってきてくれるからかわいい、と教えてくれた。(ちなみにハトに餌をあげる人たち同士の暗黙の了解で、自分の餌やりのテリトリーは決まっている、という話も教えてくれた)

彼もまた、ハトに受け入れられる、という方法で社会と繋がっていようとした。

ネコに餌をあげる人たちは、もっとわかりやすくコミュニティ化していた。「ネコをかわいがる」という共通の課題を通して、人とつながっているように見えた。

それらの行動は、通常「迷惑行為」とされ、排除する動きもある。「良い」か「悪い」の基準で言えば、「良いとは言えない」行動かもしれない。たしかに、誰かに迷惑をかけるのは良いとは言えない。衛生面や職務妨害という観点からみたら、それはやっぱり、良くはない。

だけれど、彼らがしていた行動は「社会と繋がっていたい」という心境のあらわれだ。「それらをしなければ社会と繋がれていない」と感じているのかもしれない。そう気付いた時、私たちにできることは、迷惑行為をやめさせることだけなのだろうか?街で暮らす人が、社会と繋がっている実感を得られるもっと別のアプローチがあるのではないか。

知ること、考えることは、非力でありながら「無意味」ではないよう気がしている。

先日、安楽死制度に対する本を読んだ。安楽死制度を導入することは自殺の抑制に繋がるのではないか、安楽死制度は「死にたい」という気持ちを安心して吐き出せる窓口となり、自分から死にたいと思っていた人と関わりを持つことで逆にこの世界に留めることが出来るのではないか、という肯定や、安楽死があることで迷っていた生きる希望を手放しやすくなってしまうのではないか、介護の問題を懸念して「安楽死を希望すること」を強要されるような状況にはならないか、など。安楽死の難しさを問う本だった。

だから、もう眠らせてほしい:西智弘

その中で印象的だったのが、自殺の対策に協力したときのこんなエピソードだった。

”「そこで飛び降りた人たちを撮影した、監視カメラの映像を見てくれっていうんですよ。まいったなと思ったけど、見たんですよ。そしたらね、飛び降りる前に身支度を整えて、ずっと逡巡して、逡巡して、最後には飛び込むんだけど、みんな最後まで何かを握りしめているんですよね。なんだと思いますか。」「それは、携帯電話なんですよ。人と繋がるためのツールでしょ、携帯電話って。」”

人は、最後まで迷い、人とのつながりを求めている。

そのエピソードを読んで、胸がつまった。飛び込むと決めた人が、最後の最後に求めていたのは、誰かの生身の声だったのかもしれない。

人は、社会とのつながりを求めている。社会とのつながりとは、人とのつながりである。それらを自分のやり方で、みんな必死に守っている。私だって、きっと一緒だ。街でコーヒーを淹れることで、誰かに喜んでもらうことで、社会とつながっていようとしている。

そういう人たちに、気付きたいから、私も一緒だよって気付いて欲しいから。街でコーヒーを淹れていたい。お店の中ではなく、できれば街の中で、やっていたい。そんなことを改めて考えた週でした。

2022年03月21日 | Posted in お店のこと, ブログ, 私の生き方 | | No Comments » 

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です