違うということ
【違う】ということが、けっこう好きだ。
うわあ、この人、私の感覚とぜんぜん違う!と思うと、とっても興味をそそられるし、なにがどうなってそう感じているのか、知りたい。
そして、違いを掘っていった先に、おんなじ地層のようなものをみつけると、萌える。
違うと思っていたら、おんなじ土が出てきたねえ!となると、興奮は強まり、【違うこと】と【同じこと】が地続きであることを知れた喜びがある。
違うことは、怖いことじゃない。違うことを、違うまま、知ろうとすればいい。知った先に、何かあるかもしれないし、なにもないかもしれない。わからないことは怖いけど、知ったら怖くなくなることもある。
違いはおもしろい。意味わかんない!と感じることがなくなって、意味わかる!だけになったら、きっとつまらない。
とはいえ、違うこと、が唯一受け入れられないときがある。それは、その【違い】によって、自分に影響が出てくるとき。自他をはっきりと分けているときには、【違い】は怖くない。自分の領域を侵してきそうな【違い】は、ちょっと距離を置きたくなる。
”友だちじゃない人”をつくらない為に、友だちはつくらない。と発した時に、”僕は強行で全員友だちになっちゃう!”と言った人がいて、いいね、いいね、と思った。
境界線をつくらないために、すべての境界線を消しゴムで消すのか、もしくは、世界を丸ごとぐるっと鉛筆で囲むのか。やっていることは反対だけれど、したいことは一緒だ。
全然別のもの、と思っていたものが、本当は同じことを言っていたりする。表面に見えているものだけで見ていると、どきどき見誤る。
掘っても掘っても違う、ということも当然ありうる。その掘った場所は、今はわからなくても、いつか「あぁ!あのときの!」となるかもしれないし、ならないかもしれない。ならないかもしれないけど、掘ったことは無駄ではない。掘り方をひとつ学んだ、ということでしかない。
同じものを共有したい人と、同じように共有できなかったとき、悲しい気持ちになることもある。けれど、よくよく考えたら共有することだけが幸福でもない。
私にはこんな風に見えているけれど、君にはどんな風に見えている?そう言い合えるのも、ひとつの幸福の形。
違うものを尊重することは難しい。でも、それは、自分や、自分の思想や、自分の価値観を否定することとは違う。
自分を尊重したうえで、相手も尊重する。
自分の感覚に、感じたことに、大事にしたいことに、自信を持つ。私はこう感じた、私はこう思った。そこに間違いなんてものはない。相手への尊重はそこからしか始まらないのかもしれない。
今、まったくちがう2つのお店をやっている。
表と裏、静と動、縁と無縁、繋と断、言語と非言語、明と暗、外側と内側、わかりやすさとわかりにくさ。
すべてが異なる、ように見える。自分と自分を否定し合っているようにも思える。だけれど、違いを掘っていった先に、同じ土が埋まってる。表現の仕方が違うだけ。
違うことは、おもしろい。いらっとすることも、もう!と思うことも含めて、おもしろい。感情が動くこと自体が、おもしろいのかもしれない。それが、生きている、ということなのかもしれない。
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コメント4件
私も【違う】ことが好きだから他人と【違う】車?を買ってしまったのかʬʬʬ
映画の感想でも皆んなと同じ様に感じることもあるし【違う】と感じることもある
また、それを話すことも楽しいし、【違い】を知れることも楽しい
友達じゃない人をつくらない為に…で思い出したんだけど、樹木荘の隣のお寺の入り口に「仲間をつくると 仲間外れをつくりだす」って掲示してあったんだ
「仲間」と「仲間以外」なのか「仲間の中に仲間外れをつくりだす」のどちらともとれる言葉
区別する為の境界線を無くすのが平和なのかな?
あ、最近知った宇多田ヒカルの「何色でもない花」、自分を大切にしようと思える曲です 1度聴いてみてください
違うことは面白い!ていいですね‼︎!
どうしても、共有したい、わかって欲しい、人と違うと恥ずかしい、なんて思いがちですけど、あれ?違う?て感じた時に、じゃあ、あなたはどう思うの?と訊ねるという一歩を踏み出したら、意見は違っても時間や話題は共有出来ますね
そして、もしかしたら違うように見えて一緒じゃん!なんてことにもなるかもしれない
世界は陰陽の絶妙なバランスで変化し続けてる
一見反対に見えるけど、やっぱり元は一つだから、一見違うような考え方でも根本は同じかもしれないですね
尊重し合えなかったり、ミスコミュニケーションで争いことになってしまうのかも?なんて思いました
ちょっとコミュニケーションがより楽しくなりそうです