美しさを委ねる

贈り手側が発する”これ、いいですよ”ではなく、受け手側が見つける”これ、いいじゃん”。

民芸の話をしている時に、そんなような話になった。

有名なすごい人がつくった作品、ではなく、名もなき職人が、民衆のために量産した工芸品。

それはつくられた時に”いいもの”になるのではなく、誰かの価値観によって発見された時に”いいもの”として浮かび上がる。

作っている側が「わたしたちは、いいものをつくっています」と自身を持って発するのもいい。

けれど、受け手側が「うわあ、これ、なんか、よくない?いいよね?」と、不安になりながらも漠然と伝わるよさ、みたいなものも、とってもいい。

受け手側が発掘する。見つける。感じる。

それは、ぼうっとしていたら見過ごしてしまう。千利休の審美眼は、それの境地なのかもしれない。

誰も”いい”といっていないかもしれないもの。不確かなもの。曖昧なもの。決して、共通認識ではないもの。

誰かが”いい”と言っていたわけではないけれど、わたしはとっても”いい”と思うもの。

受け手側の感性に委ねられるもの。

それは、まさに、樹木荘的な感じがした。

あなたは、どう思う?何を感じる?その場所のおもしろさ、良さ、感じ方は受け手側に委ねる。

作り手側から発したい気持ちをぐっと堪える。相手の感性が動くチャンスを奪わない。

名もなき人たちの手仕事。実用的で健全な美。

作品としてのアートも素敵だけれど、私は、自ら見つけにいく”美しさ”を愛おしく思う。

暮らしの中に当たり前のようにあるものだとしても、誰も見向きもしなくても、私だけの”美しい”であったとしても。

エレベーターから降りるとき”どうぞ”と微笑んでくれた今日の誰かの表情や、一生懸命ひとの自転車を直している横顔や、いつもありがとう、と声をかけてくれる人の柔らかな目。

そうっと忍ばせた折り鶴や、カゴいっぱいのドライフラワー。

世界は、もうすでに、美しいもので溢れている。

お客さんが樹木荘に美しさやおもしろさを見出してくれるように、わたしたちもお客さんの美しさやおもしろさを見つけている。

誰かが定めた価値判断はいらない。誰かの基準にあてはめた評価はいらない。

ROJICOFFEE&BOOKSの”露地”は、「浮世の外側」という意味がある。

浮世=つらく厳しい現実世界。露地は、その外側。煩悩・束縛を脱却した境地。

現実世界で、無価値であると判断されることも無駄だと省かれることも、露地ではそうじゃない。

現実世界の評価は、露地では意味をなさない。

このお店が、大切なことを大切にしながら成立すること。それは私にとっても希望でもある。

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    価値観は人それぞれ
    レコードのB面(表のA面がメインで売りたい曲、B面は抱き合わせ的、オマケの様な捨て曲が多かった)から物凄くヒットする曲が生まれる事もある
    他人が”いい”と思うものを自分も”いい”と思うかはわからない
    自分が”いい”と思うものは”いい”ものだし、自分が”幸せ”と感じる事が”幸せ”なんだと思う
    知らんけど

    • NOZOMI より:

      松島さん

      価値観は人それぞれだからこそ、”ひとそれぞれ”で放り出さずに、あなたはどんな感じ?と向き合っていきたいものですu_u

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