だから、わたしは尖らない
カフェは、街の「、」である。
以前読んだ本に、そんな文言があった。
出掛けてから、帰るまでが一つの文章だとしたら、カフェは街の「、(読点)」
決して終着点「。」ではないけれど、息を整え、次に向かうための小休止。
そんな意味合いだったように記憶している。その時(あぁ、カフェって、いいな)と思った。今になってもその【いいな】は色褪せることなく心の中にしっかりと住み着いている。
人が暮らす日常の中で「、」のような場所をつくるためには、空間自体は極めて普遍的なものであった方がいいように思う。特別に足を運ぶわけではなく、いつもそこに存在しているような空間がいい。
ごくごく当たり前のような、誰にとっても受け入れられるような空間では、そこに来る人それぞれの特徴や個性が浮き彫りになる。
それで、いい。
それが、いい。
あえて、お店は尖らせない。
ターゲットは、絞らない。
お店を尖らせることは、お客さんをある程度絞る効果がある。
それはとても魅了的なことだけれど、おそらく私がやりたいものとは逆。
なるべく多様多種な人が集まった方が良い。普段接しない人と関わるきっかけになったり、相容れない他を受け入れる寛容さの必要性を伝えられたら、なおいい。(個人的に好きなのは、尖ったお店なのだけれど)
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以前、移動カフェの時にお客さんから言われて「はっ!」とした一言がある。
「ここは、あなたのステージだね!」
おそらく、いい意味で言ってくれたのだと思うのだけれど、私にとってそれは(自分の提供したいものとは異なる方向なのではないか?)という疑問だった。
私がしたいのは、ステージの演者ではない。むしろ、照明や音声といった裏方作業。
お客さんは、観客ではない。むしろ街の風景を彩る出演者。
そういった意味でも、場所や私自身はある意味究極の「普遍」でありたい。
そんなことを最近は考えている。
ひらかれた場所として、出来ることを模索中です。
店主のコーヒーに対する情熱はめちゃくちゃ尖っていますが、お店は「ほっと出来る心安らぐ場所」…そんな風に感じます
お客様が主役、自分の仕事もそんな感じでしょうか
電柱の建替えや電線の張替え工事にあたり、停電したり工事車両で渋滞したり…
災害復旧でお客様に「ありがとう」って言われるとこの仕事やってて良かったなって思います
ほっと出来る心安らぐカフェ、これから新たな何かが起こるのか…それとも…
今の感じのお店好きだから、このまま何も変化しないってのもありですよ