だから、わたしは尖らない

カフェは、街の「、」である。

以前読んだ本に、そんな文言があった。

出掛けてから、帰るまでが一つの文章だとしたら、カフェは街の「、(読点)」

決して終着点「。」ではないけれど、息を整え、次に向かうための小休止。

そんな意味合いだったように記憶している。その時(あぁ、カフェって、いいな)と思った。今になってもその【いいな】は色褪せることなく心の中にしっかりと住み着いている。

人が暮らす日常の中で「、」のような場所をつくるためには、空間自体は極めて普遍的なものであった方がいいように思う。特別に足を運ぶわけではなく、いつもそこに存在しているような空間がいい。

ごくごく当たり前のような、誰にとっても受け入れられるような空間では、そこに来る人それぞれの特徴や個性が浮き彫りになる。

それで、いい。

それが、いい。

あえて、お店は尖らせない。

ターゲットは、絞らない。

お店を尖らせることは、お客さんをある程度絞る効果がある。

それはとても魅了的なことだけれど、おそらく私がやりたいものとは逆。

なるべく多様多種な人が集まった方が良い。普段接しない人と関わるきっかけになったり、相容れない他を受け入れる寛容さの必要性を伝えられたら、なおいい。(個人的に好きなのは、尖ったお店なのだけれど)

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以前、移動カフェの時にお客さんから言われて「はっ!」とした一言がある。

「ここは、あなたのステージだね!」

おそらく、いい意味で言ってくれたのだと思うのだけれど、私にとってそれは(自分の提供したいものとは異なる方向なのではないか?)という疑問だった。

私がしたいのは、ステージの演者ではない。むしろ、照明や音声といった裏方作業。

お客さんは、観客ではない。むしろ街の風景を彩る出演者。

そういった意味でも、場所や私自身はある意味究極の「普遍」でありたい。

そんなことを最近は考えている。

ひらかれた場所として、出来ることを模索中です。

2019年12月14日 | Posted in お店のこと, ブログ | | 2 Comments » 

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コメント2件

  • 松島 馨 より:

    店主のコーヒーに対する情熱はめちゃくちゃ尖っていますが、お店は「ほっと出来る心安らぐ場所」…そんな風に感じます

    お客様が主役、自分の仕事もそんな感じでしょうか

    電柱の建替えや電線の張替え工事にあたり、停電したり工事車両で渋滞したり…

    災害復旧でお客様に「ありがとう」って言われるとこの仕事やってて良かったなって思います

    ほっと出来る心安らぐカフェ、これから新たな何かが起こるのか…それとも…

    今の感じのお店好きだから、このまま何も変化しないってのもありですよ

    • NOZOMI より:

      松島さん

      お返事遅れました!
      店主の情熱、尖ってますかね。笑
      本人はそんなつもりもないのですが、そう思っていただけたら幸いです♪

      本当、お客さんと直接関われる仕事は、ある意味中毒のような気持ち良さがあると思います。
      大変だったことも、その一言ですべて吹っ飛ぶ。

      これからも、そんな環境でいられるように精進いたします♪

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