言葉のズレの微調整
自分のことを認められない。そう思っている人は案外多いかもしれない。
「自分を認める」とは、なんだろうな。
たとえば、あなたの目の前にマグカップが置いてあるとする。
「マグカップが在ります」が、マグカップの存在を認めることだとしたら「マグカップがあることを認めません」がマグカップの存在を認めない、ということ。認めようが、認めなかろうが、事実そこに「在る」のだから、それ以外に選択肢はないと思うのだけれど、それを「自分」に置き換えたときには「自分で自分を認められない」という状態が発生する。
認めようが、認めなかろうが、自分が今現存していること、感じている感情、出来ること出来ないこと、その全ては事実なのだから、それらの存在を「認めない」というのはどういうことなのだろうか。
「認める」という言葉には、いくつかの意味がある。そのひとつが、1つが【①許可する】という意味。マグカップの例は、この「許可する」の意味でいう「認める」だ。
「認める」の別の意味では【②評価する】というものもある。「自分のことを認められない」という言葉の場合、こっちの意味が強いのかもしれない。「自分で自分を評価できない」ということなのかもしれない。
では、そもそも人間は「自分で自分のことを評価できるのか」というと、答えはNOではないか。評価とは、他人に対して「判断」することなのだから。自分に対しての評価など、出来るはずがない。そうなると【評価する】という意味での「自分で自分を認められない」は、もはや当然だと言える。
つまり、②の意味で「自分で自分を認める」という言葉を使う事自体が懐疑的だ。
「自分で自分を認める」とは、今日も自分が存在している、生きている、という事実を肯定した言葉に過ぎない。
認めようが、認めなかろうが、あなたは今日も存在している。
同じ言葉でも、ニュアンスによって若干のズレが生じる。ちょっとしたズレに悩んでしまう人がいることも想像できる。たった1mmのズレによって苦しんでしまう人がいるのであれば、そのズレがどうして発生しているのかを知ることは、ほんの少し苦しさの軽減になるのではないか、と思ったので、おせっかいながら書いてみる。
認めようが認めなかろうが、あなたは今日も存在している。その事実を知ることが「自分を認める」ということ。
また、可愛い笑顔に会える日を楽しみにしています。
きっと誰かに向けたメッセージなのかな。
でもこれを読んだ人は何となく背中を押されたような
感覚になるのかも。
あっ。でも、自分好きなタイプですw
のんちゃんとの会話やメッセージは
自分の幅を広げてくれるアイテムです