出来ないことを、出来ないと言う

『繋がりを過剰に求める人』が多発しているように思う。

そういったものの大切さに多くの人が気付いた、ということもあると思うけれど、その背景には『なんでも一人で出来る』ようになりすぎてしまった事が挙げられるのではないか、と思う。

今、日常に必要な事の、ほとんどのやり方や情報がネットの中にたくさん存在している。

車のタイヤの変え方や、料理の作り方、仕事関係の作業、パソコンの使い方、調べれば素人だってたいていの事が出来てしまう。

この事を、とても喜ばしく思う。

ちょっとパン作ってみようかなーという気軽な気持ちで、なんとなくそれなりのものが出来たりするし(決して美味ではなかったりするけど)クオリティを求めなければ、ほとんどの事をたいていの人が出来るような気がする。

先日、上の画像の大人用キックボードが届いた時、箱の中にバラバラな状態で入っていた。工具が置いてある場所も知らない私では、まず無理そうなレベル。アメリカ製で日本語の説明書も同封していないらしい。

何気なく「お店の近くの自転車屋さんに組み立ててもらおっかな」と言うと、バイク好きの旦那さんが「そんなん、動画かなんかみたら出来るっしょ。ご飯食べたらやるわー」と。

すぐに乗ってみたい私からしたら、めちゃくちゃ嬉しい!ありがとう!という事なのだけれど。言いようのない気持ちが心の隅っこに出現した。

そうか。私が自転車屋さんに持って行こうと思ったのは『組み立ててもらう』という「依頼」だけではなかったのかもしれない。

知り合いであっても、なかなか用事がないお店だと、頼める仕事が発生するのはちょっと嬉しかったりする。わざわざ世間話しに行くだけでは申し訳ないけれど、ちょっとした頼みごとがあれば顔を見て「元気?これ、お願いしたいのだけど」と言いに行く事ができる。直接会いに行くことで、外部(他人)との関係を築いていける。

出来ないから誰かを頼る、というのは、周囲と自然に繋がりながら、心地よく生きていく術なのではないだろうか。

もし、万が一、すべての事を自分で出来てしまったら、一人で生きていけてしまうという事。それって、孤独感が増すこととイコールではないだろか。

そうなってしまった場合は、あえて意図的に「誰かと繋がろう」としなければ、他人と人間関係を築いていけない、という事になるのではないか。すべてではないけれど、それに近いものが今の社会には存在しているような気がする。

「つながり」という言葉が過剰に使われるようになってから、なんとなく違和感を感じその言葉自体を嫌いになってしまった。「つながりを求めて」というところに、他者を自分の都合のいいように利用したい(楽しませてもらいたい、応援してもらいたい、知ってもらいたい、安心させてもらいたい)という受け取る気持ち満々なのが、どうしても見え隠れしてしまう。

人脈、という言葉に似たニュアンスを感じてしまうのかもしれない。

出来ない事を、専門の人に頼む。職人さんの技術を空気で感じるために、お店に通う。わからない事は、知ってる人に教えてもらう。何が何でも!と、自分でやろうとしない。

そんな風に助けてもらいながら生きていたら、過剰に求めなくても「繋がり」って自然と出来るのではないだろうか。

タダで済むことばかりを求める、お得なものを追いかける、というのは結果的に良い繋がりやご縁を遠ざける気がする。なぜなら、類は友を呼ぶから。

「繋がり」や「ご縁」は、そこから何かを受け取るための手段ではない。

そして、自然に発生した繋がりからの「ご縁」は、濃い。繋がりを求めまくって、発生した「ご縁」よりも、双方にとって印象的だ。

FacebookやInstagramで出会う事だって、すごく素敵。行きたいお店をピックアップして、それを目的地に出向くことだってある。だけれど、歩いていたらたまたま出逢ったお店っていうのも、とても良い。

意図ではないものこそ、運命的な気がする。

話はそれてしまったけれど。

出来ないものを、出来ないということ。そんなところから、人と人は関係を築いていけるのではないか、と思う。

2019年09月02日 | Posted in Uncategorized, ブログ, 私の生き方 | | No Comments » 

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