あるようで、ない【事実】
ケンカをしてしまった、2人がいるとする。
例えば、Aさんからことの顛末を聞き、Bさんからもことの顛末を聞くとする。
Aさんのいう事実を「A’」とし、Bさんのいう事実を「B’」とする。
「A’」と「B’」は、両面どころか、球体のようになっていて、どちらとも事実といえるし、どちらとも事実ともいえない。ここに例えばCさんがいれば、「C’」という事実が存在することになる。
全員同じ場所にいて、同じ事象を体験したとしても、それは個々の立場や解釈ですべて異なり、まったく違うストーリーとして立ち昇る。それは、同じ世界を生きているようで、別の世界を生きているともいえる。
私たちは、こんな簡単なことすらも、日々の中で忘れてしまいがちだ。
先日、トイレの場所の案内がうまく伝わらず、怒ってしまった人がいた。
「君たちのいう方向にトイレはなかった!」という彼主張は、彼からしたら事実でしかない。
「いやいや、そんなことはない、あるはず」という私たちだって、嘘はついていない。事実だ。
でも、彼の世界では「トイレは無かった」
だから、その怒りを体感しようするしかない。その世界に自分が出向いていって、わかろうとするしかない。自分の立ち位置にいたままじゃわかりえないものも、ほんの少し見方を変えれば見えるかもしれない。
本当にあるのか、ないのか、ということはどちらでもよく、”その人にとっては”何が見えたのか、と知ろうとしないといけない。それは、諍いや線引きをなくすことにつながる。
相手の気持ちを考えよう、とよくいうけれど、完璧に「理解する」ことなど、およそ不可能だ。ただ、「理解すること」が不可能だとしても、「理解しようとすること」は出来るかもしれない。
世界の中でたった一人でもいい。理解しようとしてくれる人がいたのであれば、それはきっと孤独をやわらげる。
誰かのことを、わかろうとしてみる。それだけで、世界は立体的になる。
一人一人のそれが、球体を構成する要素として、とても大切かもしれない。
あのとき怒った彼に、余韻を与えてもらった。もう、会うことはないかもしれない。でも、もし、またいつか話すことがあるとすれば、余韻を与えてもらったという気持ちを抱きながら接することができる気がする。
日々、精進。
ケンカのくだり、同じ事象でも個々により見えている世界が違う……映画「怪物」を観て思い知らされましたね
たった一つのTVのニュースやネットの情報のみで、それを真実だと安易に判断してしまうのは危険ですね
トイレの案内は、簡単な様で結構難しいのね
頭の中のイメージしてる映像が透視出来たら「あぁ~そっちじゃないよ~」ってなるねʬʬʬʬ
それで最近何処かの場所を説明した後に、ちゃんと伝えた(はず)の方向に向かっているかチョッと覗いて確認?してるのね~
某探偵アニメの主人公の決め台詞の様に「真実はいつも一つ!」ではなく、真実は人の数だけあるのかも知れません