脳の休息としてのカフェ
側頭部がパンパン、というのは、はじめての体験だった。
先日、はじめてアンビエント・ミュージックというものを生で聞いた。
音の層を重ねて、ずらして、伸ばして、みたいな。生まれて、消えて、渦まいて、みたいな。
そういう音をある程度の音量で浴びていると、次第に、側頭部が活発になり、頭が四角くなってしまったのではないか、というほど、耳の上がパンパンになった。
後で調べてみると、脳の中で側頭部は聴覚からの感覚情報を処理しているらしい。普段聞き慣れない音を体験をしたことで、わたしの身体はひとつ新しい感覚を体感することができた。
とてもおもしろかった。
頭の感覚はおもしろい。
思いっきり泣いたときには後頭部の下の方から何かが吹き出している感覚がするし、オキシトシンが滲み出ているときの感覚はわかるようになってきた。猛烈な眠気に抗えないときは、なにかに抵抗しているときであることが多いし、そのときは脳が縮んでいるような気配がする。
”しなければならないこと”が自分の許容を越えてくると、頭の前のほうがパンパンで重くなる感じがする。
そういう、身体の(脳の)不調を自分で認めたときには、「こりゃだめだ、カフェに行こう」と、身体の声に従うことにしている。
考えなくてはならないことが多いときや、ストレスが溜まっているとき、脳みそが重くなってきたとき、など、カフェは頭の前のほうがパンパンになってきたときにおすすめな場所のひとつ。
そういうときのカフェでの過ごし方は、とにかく”何もしない”に限る。
スマホでの収集も、いいねの撮影も、インプットとしてのデザートも、夜の献立もすべて放り投げる。言語的な情報は最低限な場所が良い。もはや、カフェじゃなくて、川辺や人気のない公園などでもよい。渓谷、みたいなところなんて最高。とにかく、言語と離れること。
大事なのは、頭の中の過多なことばをなるべく減らす、ということ。
なにもしない。なにも考えない。文字を読まない。数字を見ない。計算しない。時計を伏せる。
「考えない、考えない」と考えちゃいそうなら、五感に集中する。
風の音に耳を澄ませる。太陽の光を皮膚で受け止める。目の前の視界の中で一番美しいと思ったものに目を凝らす。自分をとりまく香りを体内に充満させようと深く吸い込む。
五感に集中していると、思考の濃度は弱まっていき、次第に頭は軽くなっていく。ドロドロしていた脳内が、さらりと流れていく感じがする。
カフェは、街の中で、お手軽にそれができる場所。自分で自分を整える、とはそういうこと。
”来たとき”と”帰るとき”は、現実的には状況は何も変わっていない。けれど、世界の見え方は変わっている。はず。
カフェは、コーヒーを飲んだり、ケーキを食べたりするだけの場所じゃない。もっともっと、他にも色んな可能性がある。自分の身体の状況に合わせて、そのときに適したカフェを見つけておくとよい。カフェだけじゃなくて、お気に入りの場所も見つけておくと良い。
ひとりになれる場所も、誰かと話せる場所も、その時その時の自分に何が必要か知っておくと良い。
わたしにとってカフェとは、脳の休息所のような、そういうものかもしれない。
アンビエント・ミュージック、なんだか面白そう
体感してみたいような…ちょっと怖いような
心が本当に疲れた時は「何も考えなくて良い場所」に行くのが一番
西中山の緑化センターの木陰の芝生に寝っ転がって雲の流れをぼ〜っと眺めるのが好きだったな
カフェで人と会ったり、お話ししたり、本を読んだり、何もしなかったり……
どん底じゃない時は「何かが起ったり、起こらなかったり」するカフェにもずいぶん助けられたよな
ただ居心地が良かったりするだけではなかったみたいだ