また、来年
「また、あした。おやすみ。」
そういって頭をなでて隣を見ると、当時3歳だった息子がぽろぽろと涙をながしていた。
「また明日って言わないでほしかった」そういって、寂しそうに泣いていた。
その涙の意味は、、、?しばらく考えて、やっと、わかった。
彼にとって、「また、あした」という言葉は、”わたしとあなた”という存在の同一的感覚が引き剥がされるような言葉だったのかもしれない。眠りは、意識を各々の惑星へ追いやり、今ここに存在している”わたし”と”あなた”という存在が、別の人格であることを思い知らされることでもある。
だから、きっと、その時の彼にとっては「また、あした」は、離別を想起させるさみしい言葉だったのかもしれない。
大人になれば、あなたとわたしの存在は別々なのだということを嫌でも思い知る。そうなってしまえば「また、あした」に寂しさはあまり感じないのかもしれない。だから、あのときの彼の涙は、あのときだけのものだったかもしれない。
「また、来年。良いお年を。」
週末は、そういって、たくさんの小さな約束をした。
また、ね。その小さな曖昧な約束は希望のひと欠片で、また会えることを願っていて、それはその時までなんとか無事に存在していてほしい、ということ。
別々の存在であるその人が、また会える日まで元気でいてくれることを願うこと。
今年はどんな年だったかなあ、と思い起こすと、いろんなことがあった気がする。
樹木荘がはじまったこと。新しい仲間が入ってくれたこと。何にもわかっていないということが分かったということ。もう自分だけではなにも成り立たないということ。いつも誰かが助けてくれていたということ。みんなで何かをするということ。
そして、愛はいろんな形で飛んでくるのだということ。
思いもよらないようなものが、愛の形ということがある。
自分の思い描いているストライクゾーンだけじゃなく、とんでもなく上の方にきたり、豪速球だったり、ころころと地面をころがっていたり、みかんだったり、おでんだったり、折り紙だったり、本だったり、言葉だったり、ビールだったり、コーヒー豆だったり、視線だったり、お花だったり。
日差しだったり、水流だったり、灯りだったり。
ときどきは皮肉だったり、ムチだったり、発破だったり。
寂しさだったり、怒りだったり、悲しみだったり。
だから、どんなものが飛んできても受け取れるように、守備範囲をひろく構えて、いろんな形のキャッチャーミットで受け取れるようにしておきたいな、と思う。
誰かが自分のことを理解しようとしてくれたとき、そこには必ず愛がある。だから、自分も相手の贈るものを理解しようとすることが愛の形でもある。投げるばかりじゃない。受け取るという形の愛の形もある。
それにしても”自分自身”というのは、いつまで経ってもわからない。わかるようでわからない。本当の自分、などというものが本当はないのだとしたら、わからないのも当然だ。
「自分の事が完璧に分かる」という人になど、会ったことがない。
だとしたら、わからないものに向き合い続けること、諦めないこと、踊り続けること、理解しようとし続けること。それが自分を愛する、ということなのかもしれない。
今年もコーヒーという言語をたくさん話せてとても嬉しかったです。淹れさせてくれて、いっしょに眺めてくれて、ありがとうございました。
STREETも、ROJIも、至らないことばかりで、わたしも太田も山崎もそれぞれ得手不得手があり、そのひとつひとつを日々見守ってくれた方々に心より感謝いたします。
また、ね。
テーマブックス:
駅前(STREET)「愛するということ/エーリッヒ・フロム」
樹木荘(ROJI)「Wabi-Sabi わびさびを読み解く/レナード・コーレン」
また、あした…心のつながりが引き離されたり、繋がっていると感じたり、どちらもあるなんて面白い
「未来の約束があるならば、それまでの間は一人じゃない」って少し前に読んた本に書かれていたけど、「あした」でも「少し先の未来」でも、約束がある事は生きる力になるね
クリスマスにはツリーの居場所を作ってくれてありがとうございました
あのスペースと着ぐるみ?で顔が見えない事により、新しい自分を発見できた様な気がします
2025年も駅前のあの場所で楽しい事が沢山あると良いですね