露地の縁側

「生きているだけでいい、と感じた」
ぽかぽか晴れた日に、樹木荘の縁側でぬくぬくとしていたお兄さんがそう呟いた。
生きているだけで、いい。
それが伝わったとしたら、ROJIにとってそれはとっても嬉しいこと。
人間は日々、社会からいろいろと求められてしまうけれど、本当はただ生きているだけでいいのではないか。”生産性”や”効率”が必要な場面もあるけれど、それは人間の本能的なものではなくて、”社会を構成するときに必要なもの”であって、その外側、”存在さえしていればいい”という時間があってもいいのではないか。
その時間はいうなれば、社会と少し距離を置く時間、と言い換えてもいいかもしれない。
暖かい日差しを浴びて、何にも考えずに、気持ちよさだけにフォーカスする時間が必要なのではないか。情報過多になりやすい今だからこそ。
”生きているだけでいいんだ”
その体感をしてから湧き出てきた意欲や熱意は、切迫感に駆り立てられて生まれたものよりも、広大で穏やかな気がする。
意欲や熱意が湧き出てこないこともある。それはそれで全然いい。
生まれてから死ぬまで何をしていようが、他人の自由さえ奪わなければ個人の自由なのであって、ぼーっとしていようが、一生懸命働こうが、どっちでもいい。
それで、人間の価値が変わるわけじゃない。
自分で納得できる選択さえできればそれでいい。
私たちは、日々、あらゆる価値のものさしで測られてしまいそうになるけれど、本当はそんなのはどうだっていい。自分で自分の存在を認めておりさえすれば、それでいいのではないか。
ROJIは、おそらくそういう場所で、それはわたしが何よりも伝えたいことなのかもしれない。
歩いている時、自転車に乗っている時、はたまた車を運転している時ですらスマホで情報を取り入れようと必死な人びと…
何もしない、しなくてもよい時間と空間が有る事の有り難さ
自分との対話が出来る場所なのかもしれませんね