異なること、同じこと
「分けたほうが平和」なのか「分けないほうが平和」なのか。
先週は、その両側の意見に触れて、面白いなあと感じた週でした。
例えば「異なる」ものと対峙した時に、「自分とは別のもの」として、隔てるのか。それとも、「異なりの中から共通項を探す」のか。
異なる、の時点でズバッと線を引いて右と左を分けたほうが平和だという人もいる。はたまた、異なる、を見つけたときに「なんで異なるのか」に疑問を持ち、本質まで掘り下げる中で「同じ」を見つけることが平和だという人もいる。
時間をかけずに平和を目指すなら、揉めそうな「異なる」を分け隔てたほうが、表面上は平和そうに見える。価値観の合う人だけで共有する話は、圧倒的に早い。
だけれど、それは本当に「平和」だと言えるのか。
先日、「多様性」という言葉についての記述を見かけて、納得した章があった。
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”「多様性」という言葉は、分断を肯定する言葉になっているのかもしれない”
”多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。「多様性」という言葉に寄りかかりすぎると、それは単に人々がバラバラである現状を肯定するための免罪符のようなものになってしまいます。”
”いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理がある”
ーー手の倫理/伊藤亜紗ーー
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すべてのひとを尊重しているかのような言葉の裏には、別の印象がどうしたって見え隠れする。
言葉を表面的に捉えただけでは見えてこない、影のメッセージはいたるところに存在する。
光は光で、影は影、区別してお互い干渉せずそうっとしておいたほうが社会のためだ、という意見がある。一方で、光と影を区別せず、滲ませることが社会のためだ、という意見もある。
どちらも願っているのは「平和」であるにもかかわらず、やり方が違うだけで私達は簡単に分断しそうになってしまう。「結局なにがしたいんだっけ?」というところを突き詰めると、右から行っても、左から行っても、おなじ場所に到達することもある。
そのとき「ルートは違ったけど、目的地は一緒だね」とハイタッチできたら一番いい。
きっと、これは望みでもあるのだけれど。この世界に平和を願わない人はきっといない。きっと、自分と、自分の大切な人と、そのまた大切な人たちが幸せでありますように、と願っている人がたくさんいる。
そのとき、やり方の違いだけをみると、ついつい「異なる」を強く感じて分け隔ててしまいそうになる。でも、そのときに「ルートが違うだけなのではないか?」と知ろうとしてみると、芯は”同じだ”、と気付くかもしれない。
異なる意見を、怖がらずに言い合えること。互いに知ろうとすること。知った上で、境界線をぼかすこと。異なりの中に、共通を見出すこと。
そういった、とてもとても時間のかかるプロセスの中にしか、平和は訪れない気がする。
「誰かの気持ちを理解したい」
それは、わからない相手と、わかりあえそうな部分を見つけて”同じ”だと思いたい。異なりの中から共通項を探したい。それが分断を防ぎ、平和へと繋がっていくはずだ、という希望が込められている。
「知りたい」は、”違い”を露呈させるためではなく、”同じ”を発掘したいという欲求なのかもしれない。
多様性って言葉は、細かくきっちり区別して、それぞれを認めつつも意見の合わない人同士を遠ざけてしまっているのかもしれない
私が持っているCDアルバムの中に「カフェオーレのうた」ってタイトルの好きな曲がある
「〜水平線のずっと先 きっと世界の大半は 白黒あいだで できてるよ」
「カフェオーレが飲みたいの 強いコーヒーもいいけど やさしいミルクもステキなの 白黒つけないカフェオーレ」
わからないものをわかろうとする力が分断を防ぎ、カフェオーレの様な優しい世界を作り出せるのかもしれない