モノ的/コト的
「コーヒー」が好きなのと、「コーヒーがあること」が好きなのは、似ているようで少し違う。
「本」が好きなのと、「本を読むこと」が好きなのも、似ているようで少し違う。
「カフェ」が好きなのと、「カフェに行くこと」が好きなのは少し違うし、「映画」を観るのと、「映画を観ること」は少し違う。
何がどう違うのか。それは、その対象を「モノ的」に捉えているのか、「コト的」にとらえているのか、ということ。
モノ的に捉える、とは、「コーヒー」を「コーヒー」として捉える、ということ。コーヒーという物質、に対して、すこし距離のある俯瞰的な視点から、対象を眺める、ということ。
コト的に捉える、とは、「コーヒー」を「コーヒーということ」として捉える、ということ。空間、時間、状況、それらが包み込んだコーヒーという存在があることで、何かが生まれる。コーヒーというものを、自分のいる空間に共に存在させ、同じ視点からその環境を感じる、ということ。
本や映画をみて「評論」すること。それは「モノ的」な見方だといえる。客観的視点から、その対象について考察し、評価する。
「コト的」な視点だと、「評論」するということが大変難しい。なぜなら、その本や映画の中に一緒に入っていって、自分の体験を重ねたり、価値観を取り入れたりしてしまうから。どうしても主観的になってしまい、客観性が著しく失われてしまう。
出来事を、「モノ的」に捉えるか、「コト的」に捉えるか、ということで、日々の感じ方は随分変わる。
例えば、不可解な他者がいたとする。それをモノ的に捉えると”不可解な他者”を対角線上から観察するようなイメージになる。”快・不快”、”解析”、”考察”、など、”自分とは別のもの”として、やや距離を持って視る。
コト的に捉えると、”不可解な他者と過ごすこと”として、すぐ隣りにいる相手として、”自分と不可分な存在”として、同じ円の中に置くイメージになる。その時、相手に向き合うことは、自分に向き合うことと同義語になる。
モノとコトは簡単に入れ替わったり、自分のコンディションによって無意識に選択されている。
”子ども”を”子ども”として観察することもあるし、”子どもと過ごすこと”として同じ円の中でたゆたうこともある。どちらもその都度、別の学びがある。
”どう相手に触れるかによって、引き出す情報が違う”としたら、いま自分にとって得たいものを得るための”触れかた”を知っておいてもいいのかもしれない。
個人的な話ではあるのだけれど、本を読んだときや映画を観たときに、私は圧倒的に「評論」や「要約」が出来ない。その理由がようやくわかった。自分が本の中に入り込んでしまうのだ。「評論」は出来ないけど、こうして、”読んだこと”を通して、”感じたこと”なら発せられる気がする。
わたしが出来る本の伝え方は、それしかないかもしれない。
参考書籍/時間と自己 著:木村敏
コーヒーが好き、カフェが好き、ということの捉え方にも色々あるのね
「モノ的」、「コト的」……実に面白い
コト的の方が自分の感情がより深く関わって来る感じでしょうか
映画や本を「モノ的」に捉えると「その作品の評価」的要素が多くなり、「コト的」に捉えるということは「主人公に感情移入したり、より深く考え心を動かす」事なのだろう
大好きな映画の作品を観に行く事を「映画を浴びる」と表現する方もいるみたいですよʬʬ
二宮金次郎も座って本を読む時代です
歩き読書、気を付けてねʬʬ