健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さについて/熊代亨
Instagramにも載せたのですが、再度ブログにも。
※紹介文は転載だけれど、最後にInstagramに載せるのをためらった私の個人的感想あれこれを追記してます
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健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
熊代亨
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日本は美しい国、と言われている。
昭和時代よりもずっと街は美しくなり、汚いもの・臭うもの・不健康なものには出くわさなくなり、行儀の悪い人や法を破る人も少なくなった。
医療や福祉のサポートが行き届くようになり、
障害を持つ人々も自立した個人として活躍できる社会。
全盛期に比べて、大きく進歩した社会。
では、それだけ進歩した人々は
昭和時代より幸せになれたのだろうか。
昭和時代の人々が気にもとめなかったことにまで神経を使うようになり、羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、
より不寛容になってしまったのではないだろうか?
快適な社会の新たな不自由を
精神医療、発達障害、健康、子育て、コミュニケーション、ホームレス、などなど様々な角度から考察していく。
—–以下抜粋—–
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メタボリックシンドロームなどの概念が行き渡っていなかった頃の日本人は、もっと健康に対していい加減な態度を取ることが出来た。もっと自分の身体を好きなように取り扱っていたし、それがいけないことだとは思われていなかった。
だが、現代人は健康に対して注意深くなければならなくなっている。健康にまつわるあらゆるものに気を配るあまり、健康が人生の手段ではなく、人生の目的になってしまっている人々はその極みである。彼らの人生は、健康に乗っ取られている。
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現代社会における謎の不自由さに違和感を持っている人へ、もしくは健康で清潔で道徳的な秩序ある社会になにも違和感を抱かない人へ、是非ともおすすめしたい。
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こんなにも豊かな社会なのに、なんでこんなにも多くの人が苦しんでいるのだろう。なんで、胸を張って「しあわせだ」と言える人はごくわずかなのだろう、とずっとずっと思っていた。豊かになり、仕事もあり、家族がいても、なんだか息苦しい解放されない空気。その正体はなんなのだろう、と。
例えば「体に悪いとされるタバコ」がどんどん隅に追いやられている、ということ。「健康を害するもの」の存在が毛嫌いされ、個人の嗜好すら他人が口を出し、1mmですら許容されない。もちろん、嫌いな人にとっては少しだけ漂ってきた香りは心地よいものではない。私だって決して好きな香りではない。だけれど、嫌悪の視線を向けて当然の憎むべき相手、というのはちょっと違うような気もする。
「健康にいい」ものにみんなが飛びつき、「人間は健康で長生きするべき」という押し付け。なんのために長生きしたいのか、なんのために健康でありたいのか。目的があるのであれば、それはぜひとも頑張ったほうがいい。だけれど「健康であるため」に、「好き」や「楽しい」を押し殺して、「日々」という人生を捧げるのは本末転倒だ。
その結果、医療や社会保障の予算は倍増している。
「本来、人は、案外簡単に生まれてあっさり死ぬものだった」という一文が心に刺さる。
「悪いもの」に敏感になるあまり、他人の言動を放っておけず過剰に反応してしまう風潮。「汚いもの」は追放して当然、という冷ややかな視線。「子どもを産む」という選択をためらってしまうほどの親への責任。「仕事におけるコミュニケーション能力」のハイレベルな要求やそれに応えられない人の苦しさ。
2020年により一層色濃くなったのは、コロナによる「他人への不寛容さ」の可視化かもしれない。
社会が進歩して、技術が進化して、本当に本当に嬉しい。だけれど、それによって新たに生まれた問題にも少し目をこらして思考してみるべきなのではないか。
なんというか、本当におすすめです。面白いです。ぜひとも。
興味をそそられました。
確かにすごい便利になった世の中。
その分人との関わりが希薄になった感じが
ある、、、。
一部の凄い人達が発明したモノの進化に
大勢の使うヒトが追いつかない。
私の場合は住む地域が変わったから
なのかも知れんけど、
子どもを叱る、近所のおっちゃん、おばちゃんの
存在もおらんくなったなぁ。
というか、外で遊び回る子どもが減った。
子どもが遊べる場所も減ったし、
子どもだけで遊ばせられるほど
安心出来る世の中でも、なくなったのかも。
もっと心を豊かに、寛容に
当たり前のように手を取り合える
そんな人になりたい。
我が子にもそう育って欲しい。